2016年4月2日土曜日

徳之島・奈良法隆寺にシリウス(大犬座)信仰発見「聖方位」(旧条里制)!  竹取翁博物館 国際かぐや姫学会2016.4.1

徳之島・奈良法隆寺にシリウス(大犬座)信仰発見「聖方位」(旧条里制)!  竹取翁博物館 国際かぐや姫学会2016.4.1

  徳之島の上面縄で発掘された弥生時代の女性の完全人骨は、最初から「卑弥呼」と考えられるが、町は根拠を示さず、この女性は弥生時代前期と言っている。卑弥呼は弥生時代後期(『竹内文書』では紀元前200年より以前)です。

 石上剣さんは、「聖方位」という言葉を述べられていて、超古代文明=ノアの大洪水以前からあったと言われる「シリウス信仰」に由来するものなのです。
 ネットに「聖方位は実は、冬至の深夜の太陽、シリウス(大犬座)の位置に関係する。冬至の深夜12時が新年の始まり、シリウスは真南から20度東に振れた角度の方角に輝いている。そのシリウスを遥拝する方角が真北から西へ20度の方角、これが聖方位。」とあります。この概念から「聖方位」というより「聖方位軸」と言った方がシリウス信仰との関係が明瞭なのです。竹取翁博物館ては、4年ほど前からYouTubeで主張していて、2016年2月14日に開いた「かぐや姫サミット」時のレジュメの本で詳しく説明しています。
 
 
 

 ネットに「聖方位は実は、冬至の深夜の太陽、シリウス(大犬座)の位置に関係する。冬至の深夜12時が新年の始まり、シリウスは真南から20度東に振れた角度の方角に輝いている。そのシリウスを遥拝する方角が真北から西へ20度の方角、これが聖方位。」とあります。この概念から「聖方位」というより「聖方位軸」と言った方がシリウス信仰との関係が明瞭なのです。竹取翁博物館ては、4年ほど前からYouTubeで主張していて、2016年2月14日に開いた「かぐや姫サミット」時のレジュメの本で詳しく説明しています。.
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上記本の詳細は、下記をクリック!!http://taketori.koiyk.com/ootutu-shupan.html

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 上の画像の女性の人骨を卑弥呼とすると、卑弥呼は聖方位軸に寝かせて埋葬されています。このシリウス(大犬座)が、一番明るい星であるのに北極星の北斗七星が一番明るいとして今まで隠されていたのです。それが知られるとシュメールが日本人によって作られたことが判明するからです。

 聖方位についてネットに「聖方位とは建物の配置軸が南北軸から西に20度傾いていること。聖方位配置の南端には王の座がある。またペルセポリスでは新年に聖方位軸の延長上にシリウスが見える。」とあります。「聖方位配置の南端=聖方位軸の延長上=シリウスがある、ゆえに王の座」です。ここから聖方位軸の「南」に卑弥呼の頭が置かれていたのです。頭=上に立つ人です。
 法隆寺の発掘により下層の遺跡からは、聖方位軸の延長上=シリウスの方向(旧条里制)に建物が立っていたことが判明しています。聖徳太子が通った「筋交い道」も同様です。

 
    巳 葬

 邪馬台国徳之島説の益田宗児氏は、シリウス信仰由来と考えられる「巳葬」の風習を徳之島に発見しています。巳葬について益田氏はその著書『邪馬台国は徳之島』に次のように記しています。

卑弥呼と見られる墓 (弥生時代中期)姫ハブ(毒蛇)が遺体を守り続けていた。

「死人を埋葬する時、あの世の亥、午前0時(子)の方位により近づけて、時計の針で示せば、5分前に頭を置いて埋葬する。即ち、巳の方位より亥の方位に寝かせて埋葬する習慣。いわゆる巳葬と称されるものがあった。」。そして氏は現在でも見ることのできる巳葬遺跡として天城町平土野の「港公園の洞窟墓地」を挙げています。最後に「琉球王朝時代に『巳葬』の仕来りを意識して墓所を設けたものなのか、あるいはそれ以前から、徳之島では『巳葬』に成るような地形、洞窟を選んで指定したものか、記録はありませんが、偶然だけとは考えられない、洞窟それ自体が『巳葬』にぴったりの方位に向いているのです。」と結んでいます。

 巳葬の亥と巳の方角軸は聖方位軸がその土台にあると容易に察しがつき、ともに北と北西、南と南東の間のライン(軸)だからである。卑弥呼は「巳」に頭を置いています。益田氏の言う巳葬は亥が頭の位置になっています。つまり「聖方位配置」の南端は、王の座です。王は頭を南に一般は頭を北に置いていたと考えられます。この考えが正しいなら、伊仙町の資料館に展示されている弥生時代の女性はシリウス信仰の聖方位配置から間違いなく『女王』となります。科学鑑定で人骨の年代が「弥生後期」となれば、女王卑弥呼の発見となります。この思想は、紀元前からの日本人が天文学的思想を持っていた証拠となり、完璧に魏志倭人伝に掲載された邪馬台国なのです。
http://taketori.koiyk.com/yamataikoku.html
     奄 国

 徳之島の勝氏は、人類発祥の地、ノアの大洪水の前の文明の中心地と先に明らかにされました。「ムー」の山であるピラミッド山があるのもその証拠の一つです。ムーは島言葉で「桃」である。つまりムーは理想郷=桃源郷となります。シリウス信仰はノアの大洪水以前の人類の信仰、その信仰を継承していたのがシュメール人であり、日本人がシュメール文明を創ったのです。シュメールの楔形文字は、日本の片仮名とそっくりな所から明らかです。その信仰のしるしは「聖方位」であり、徳之島に聖方位が超古代からあった。徳之島伊仙町上面縄に城があった奄国はメソポタミアから里帰りした奄美シュメール人の建てた国でもあり、卑弥呼はシリウス信仰の奄美シュメール人の思想を持っていた人物であった。

万世一系の天皇 イスラエルシュメール王 平安天皇ヨシュア勝信貴 より引用
竹取翁博物館 小泉館長 解説 21016.4.1

【参考】竹取翁博物館 小泉館長 解説 21016.4.1
Theme Park"かぐや姫の里"竹取翁博物館(同志社の街No1の博物館「三山木駅 東2!)http://taketori.koiyk.com/
「邪馬台国論争に終止符!!
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除福・邪馬台国談義

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作者空海と景教碑
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