2009年8月3日月曜日

新島襄は、同志社英学校の創立者であり福澤諭吉と並ぶ明治を代表する教育家の1人

 新島は天保14年(1843)江戸神田の上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれる。元服後、安中藩士となるが元治元年(1864)、アメリカ合衆国への渡航を決意する。ペリー艦隊が浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)の、ほぼ10年後のことであった。
 新島は先ず函館に入り込み、ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会う。このカサートキンの協力を得て、米船ベルリン号で函館から出国し、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、慶応元年(1865)7月にボストンに到着する。
 その後、ワイルド・ローヴァー号の船主A.ハーディー夫妻の援助をうけ、マサチューセッツ州アンドーヴァーにあるフィリップス・アカデミーへの入学がかなう。慶応2年(1866)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、慶応3年(1867)にフィリップス・アカデミーを卒業、明治3年(1870)にアマースト大学を卒業。これは日本人初の学士の学位取得であった。
 密出国して留学した新島襄も、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。明治5年(1872)アメリカ訪問中の岩倉使節団と出会う。木戸孝允は、新島の語学力に評価し、明治5年(1872)4月から翌年1月にかけて個人通訳として使節団に同行させた。このことによりヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねることが可能になった。その後使節団の報告書をまとめるためベルリンに約7カ月間滞在した。この報告書は明治政府の教育制度に大きな影響を与え、その後も新島は欧米教育制度調査の委嘱を受け、欧米各国の教育制度の調査を行った。
 明治7年(1874)アンドーヴァー神学校を卒業する。同年10月に開催されたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本にキリスト教主義大学を設立することを訴え、5000ドルの寄付の約束を得た。そして帰国後の明治8年(1875)11月29日、高松保実子爵より屋敷を借り受け、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任した。これは旧主家の板倉氏が京都所司代を務めていたことから公家華族とも広く親交があったことによっている。開校については京都府知事 槇村正直、府顧問 山本覚馬の賛同を得ていた。新島とJ.D.デイヴィスの2人が教員、元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人の生徒が同志社英学校の始まりだった。高松保実子爵邸は上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地にあり、後に新島襄の私邸となった。新島襄旧邸は、京都市の梨木神社の寺町通を南下して府立鴨沂高等学校の角を左に入り、寺町通の一本東の新烏丸通を南下したところにある。

 明治21年(1888)11月新島襄は、「同志社大学設立ノ旨意」を全国の主要な雑誌や新聞に掲載し同志社設立を呼びかけた。そして明治23年(1890)設立運動のために訪れていた群馬県の前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯の旅館で徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。享年46歳であった。同志社が大学令に基づき、大学に昇格したのは大正9年(1920)のことであった。
関西地区で初めての昇格であり、同志社大学文学部(神学科、英文学科)、法学部(政治学科、経済学科)、大学院、予科を開校した。新島の死後30年の時が過ぎていた。

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