新島八重は、明治新政府軍が会津へ攻め込んだ戊辰戦争で会津若松城籠城戦で、(旧姓山本)八重(24歳)は男装して新式スペンサー銃で新政府軍と戦った。彼女の家は、砲術指南の家柄だったので、銃の操作には慣れていた。
戦いを通して、女も武器さえもてば、かなりやれるものだという自信を持った。武器から、その後は英語を武器にしようとして京都で勉強を始める。
スペンサー銃は、1860年アメリカで発明された世界最初の後装式連発銃。銃身は鋼鉄製で、銃床は前床と尾床の二つに分かれ、鋼鉄製の尾槽を中心に結合している。弾倉は床尾端の装填孔より管に依って尾槽に連結され、弾薬筒の装填後、管底にコイル・スプリングを持つ鋼鉄製の弾倉管を挿入する。
若松城籠城戦に参戦したとき、既に八重は結婚していたが、籠城中に夫は戦闘に巻き込まれ行方不明になる。会津藩が降伏後、彼女は京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。
新島襄は、アメリカ留学から帰ってきて、京都で神学校を作る計画をしていた。それで兄の山本覚馬を訪れているうちに八重と知り合いとなる。真夏の暑いとき、つるべ井戸の上に板を渡し、その上で冷房代わりにしている八重を見て、新規なアイデアを考える彼女に好意を抱く。 翌明治9年(1876年)1月3日に結婚。その前までは、英語の勉強している。明治5年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の舎監と教道試補の仕事についてい
た。
八重は、結婚と同時に新島襄の同志社建設に助言をして京都女紅場は退職。レディーファーストの身についた新島襄と男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったが、世間は「亭主を尻に敷く」悪女と言う評判であった。
頭は帽子をかぶり、足は革靴、パラソルで、着物を着る和洋折衷の格好を鵺ぬえだと称したが、新島八重は世間のそしりをヘとも介していなかった。
新島襄の結婚生活は、約14年間で明治23年(1890年)病気のため急逝している。このため新島家に養子を迎え、八重は新島家と疎遠になり同志社とも足が遠のいていく。結婚当時から、八重は悪妻ぶりを上げつらわれ、夫のいない未亡人の身の上では、多分居心地はよくなかったとみられる。
この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。茶道を教えていた時期もあり、その後、日露戦争時の従軍看護婦に志願して、50代で20名の看護婦を引き連れ、広島で傷病兵の看護に当った。それまでは、看護兵が看護していたので、女の看護になると風紀の乱れを指導部では危ぶまれた。そこで軍としては「年配で見栄えのよくない」女性を看護婦として行かせるという方針だった。50代の八重はその条件にぴったりだったという。その後八重は、昭和7年に87歳で亡くなるまで、止むことのない好奇心に満ちた女性だった。
新島八重は、日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年(1928年)昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を授与される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地にある。
参考文献
■『近代の数寄者 続・茶人伝』(淡交社 淡交別冊愛蔵版 No.23)
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